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日清戦争~日露戦争前(明治26~明治36/1893~1903)
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作詞 不詳
作曲 不詳

朝鮮元来姑息にて
進取の気性更に無く
文事武備とも衰えつ
ただ浮き草の風任せ

中に閔氏金氏とて
二門の軋轢日に高じ
遂に金氏の倒れつつ
今は閔族漫凝りて

濫に弄する政権に
忠臣義士は獄に泣き
妄人汚吏の時笑顔
民の塗泥に苦しむを

救う心の一揆兵
東学党とは名付けたり
筵の旗に竹の槍
勢い破竹のごとくにて

韓兵これを防ぎしも
容易に鎮定せぬのみか
ますます烈火の猛勢に
かえって韓兵敗を取り

政府は殆ど累卵の
危機一髪に迫りけり
しかれば閔族一門は
まず取り敢えず隣国の

清に向かいて援を請う
これぞ日清戦端を
開く基となりたりし
開く基となりたりし
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作詞 小川作之助
作曲 旗野十一郎

祝えよ祝え皆祝え
我が征清のますらおは
勢いは破竹もただならず
無人の境を行くごとく
海に闘い艦を捕獲
陸に戦い陸を掠取
日々に広まる占領地
西にも東も新日本
四辺まばゆき旭の御旗
帝国万歳万々歳
作詞 不詳
作曲 不詳

鍬を持つ手に鉄砲持って
花の仙台出たのは去年
長野逗留広島街で
欠伸交じりの小言も出たが
やがて船出は宇品の港
これが故郷の見納めなるぞ
船の中から首差し出せば
煙のようだが山々の影

どうせ死ぬのに何要るものか
さんさしぐれを歌って死ねや
骨と髪とが故郷に行かば
家でかかめが鼻高かろう
さあさやれやれ突貫攻撃
弾は霰と飛んでは来たが
何の因果か当たってくれず
露営舎営に風邪さえ引かず
豚と芋とで豚のよに肥えた

夕べかかから手紙が着いた
家の倅は学校通い
村の娘っ子がお嫁に行った
ブリキ喇叭を五銭で買って
次男は毎日喇叭吹く
吹いた喇叭を夢に見て
今朝の喇叭で目が覚めた
目が覚めたヤンレー
作詞 不詳
作曲 不詳

あの成歡の戦いは
さして大戦ならねども
知らぬ敵地は岩も樹も
皆死の伏せる所なり
我が進みたる一尺の
土地の命の値ぞや
草に置くなる露さえも
色紅に染めなせし
肉あり血ある人の身の
躊躇いやすき弾丸の雨
鉾の稲妻死の叫び
筒の響きのその中に
その音も猛く吹きしきる
喇叭の号令進めや進め
我が喇叭手の源次郎
小高き丘に登り立ち
降り来る弾丸も数知れぬ
敵の方だに見返らぞ
目を隊長に注ぎつつ
またも号令進めや進め
山より落つる瀧の瀬が
我が進撃の弾剣
敵は得堪えで崩れたり
我が軍隊の働きは
黄金求めん為ならず
名誉の為ぞ国の為
身は小なれど肝は大
再び起こる進撃の
号令末だ半ばにて
進めや進めの音消えぬ
いかにせしぞ源次郎
息切れせしかと返り見れば
足よろめきて唇は
なおも喇叭に接しつつ
進め進めの音は絶え絶えに
喇叭に伝う唐紅
彼斃れたり人々よ
心の色は熱血は
朱に喇叭を染めにけり
身は死すとてもますらおの
面は敵に向かいたり
汝名誉の戦死せり
岡山県下船穂村の
住人たりし源次郎
我が大君の御為ぞや
皇御国の御為ぞや
作詞 小笠原長生
作曲 不詳

雲か霞か凄まじや
砲煙海を閉ざしつつ
秋の日影も朧なり
入り乱れたる敵味方
合わせて二十八艦の
中にも目立つ松島は
定遠鎮遠打ち望み
真一文字に進みたり
艦の上にきっと立ち
剣打ち振り声限り
撃てや撃てよと令かくる
まだ年若きもののふの
その名を聞けば志摩大尉
猛く雄々しき波とても
物の哀れは知るなかれ
君恩重く身は軽き
忠義の二字に父母も
妻子も後に振り捨てつ
ただ敵軍を破らんと
鋭き眼見開きて
睨みつめたる定遠の
三十サンチの弾丸は
無残や百余の兵士は
骨肉微塵に飛び散りて
前後左右に倒れたり
大尉は鮮血を浴びつつも
更に恐るる気色無く
いで我が部下の仇をば
取りて忠義の魂を
慰めやらんと続け撃ち
釣瓶かけたる勢いに
さすがに堅き定遠も
火災を起こし逃げ行くを
なおも追い撃つ時も時
またも飛び来る一弾は
撃たれて大尉は波の中
浮きつ沈みつ流れ行く
されども鍛えし鉄石の
大和心の一筋に
御国を思う外は無く
片手を上げて軍帽を
高く打ち振り叫びたり
日本帝国万歳と
この一言を名残にて
彼は儚くなりにけり
艦に残りし人々は
大尉の最期を眺めつつ
日本武士の鑑ぞと
今も語り伝えぬる
かかる忠義の人々が
一心凝りて敵軍は
破れ砕けて影も無く
旭の御旗輝けり
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